あなたは「人が死ぬとどこに行くんだろう?」と考えたこと、ありませんか?私はあります。
もちろん毎日そんなことを考えているわけではありません。
私がお葬式の現場で働いているから、そんな風に考えるのかもしれません。
もしかしたら数か月前に見送った母のことが関係しているのかもしれません。
ただ小さい頃に同じような質問を大人にすると、大抵の大人は「天国」と答えませんでしたか?
でも「天国」って実はある宗教が考える死後の世界なのです。
もちろん宗教によっては死後の世界を「天国」とは言わず別の呼び方をします。
そこで私自身も時々思う「人は死ぬとどこに行くのだろう」という疑問の答えを、今回は宗教の考え方を通して考えてみます。
宗教によって人が死んだあとに行く場所は違う
子どもをお葬式に連れて行くと、「死んだらどこに行くの?」と訊かれることがあります。
私自身もその経験があります。
私の祖母のお葬式に娘を連れて行ったときには、娘から「おばあちゃんはどこに行ったの?」と訊かれました。
お葬式の仕事をしている時には、参列者が連れてきた子どもから「死んだ人はどこに行くの?」と訊かれることもあります。
正直言うと「天国に行ったんだよ」と答えた方が、大人の立場としては楽です。
でもそう答えると、今度は「じゃあ天国ってどんなところ?」「天国はどこにあるの?」と訊き返されます。
この質問の答えには、私だけでなくあなたも困った経験があるのでは?
そもそもお葬式を仏式で行うのであれば、最初に「死んだ人はどこに行くの?」と訊かれた時に「それはわからないよ」と答えるのが正解です。
仏教では死後の世界に「天国」はありませんし、死んだ時点ではどの世界に行くのか決まっていないというのが仏教の考え方にあります。
(もちろん宗派によってはこの解釈が当てはまらないこともあります)
では宗教では死んだ人はどこに行くと考えているのでしょうか?
・キリスト教では「天国」
キリスト教では、人が死ぬと必ず「最後の審判」を受けるといいます。
最後の審判の先には「天国」があります。
天国は「神の王国」「約束の地」と解釈することもあります。
いずれにしてもその場所は穏やかな場所です。
ちなみにキリスト教では「生まれ変わる」という考え方はなく、この世に存在していたままの姿で天国に行きます。これはわかりやすい解釈ですね。
・ユダヤ教でも「天国」
ユダヤ教はキリスト教思想家にも大きな影響を与えた宗教です。
ただその場所は時代によって解釈が変わりました。
最初は「地上への復活」とされていたので、天国といっても「天の国」とは解釈していませんでした。
それが時代と共に拡大解釈されるようになり、「人は死ぬと来世である天国に復活する」と考えられるようになります。
そのため天国がある場所は地上ではなく天に変わりました。
・イスラム教では「イスラーム」
イスラム教には、イスラムの教えを貫いた人だけが行くことが出来る「イスラーム(天国)」があります。
イスラームがどんな場所なのかが具体的に示されているのがイスラム教の特徴で、その様子は聖典『クルアーン』に描かれています。
・仏教では「天道」
仏教では天人が住む世界のことを「天道」といいます。天人は全ての煩悩から解放された存在なので、その世界に生まれ変わることは仏教では「最高の生まれ変わり」とされます。
ただ仏教は宗派によって死後の世界観が違います。
この場合は「浄土」「極楽」と呼ばれる場所が存在します。
・神道では「幽冥(かくりよ)」
神道では、死んだ人は「幽冥」に行きます。
幽冥はキリスト教の「天国」や仏教の「天界」のように遠い場所にあるわけではありません。
この世からそれほど遠くない場所にあるといわれています。
ただ幽冥は、この世からは見えません。その代り幽冥からはこの世を見ることはできます。
近くに存在するのですがこの世からは見えないので、今一つその場所がどこにあるのかわかりにくいです。
ちなみにその距離感を表した言葉が「草葉の陰」です。
この言葉は「死んだ人は生きている人のすぐそばで見守っている」という考えがもとになっています。
死者の魂はすでに幽冥にあるのですから、この考え方はそれに基づいています。
この言葉はお葬式の喪主の挨拶でもよく耳にします。
「草葉の陰で故人も…」という使い方をしますが、神道の解釈を元にすると「死んでしまったけれど、故人は今頃きっと幽冥からこちらのことを見ている」という意味になります。
キリスト教では天国だけでなく地獄もある
キリスト教の死後の世界は「天国」と言いましたが、本当はもう一つあります。
それが「地獄」です。
「天国と地獄」という言葉がありますが、まさにその言葉通りこの2つの世界は真逆の世界です。
ただしこの2つの世界は「永遠である」ということが共通しています。
天国と地獄のどちらに行くのかは「最後の審判」が決めます。
キリスト教では人は亡くなると必ず「最後の審判」を受けます。
その結果、「天国に行く」「地獄に行く」が決まります。
どちらの世界に行くにしても、キリスト教では死後に生まれ変わりはありません。
この世で存在したそのままの魂で死後の世界に行きます。つまり「生まれ変わらない」のです。
天国は「永遠の楽園」といわれていますが、地獄も「永遠」です。
でもキリスト教における地獄のイメージはそれほどはっきりと書かれているわけではありません。
唯一言えるのは「神の力が及ばない世界」ということなので、あらゆる苦痛が待っているといいます。
キリスト教が具体的に地獄の様子を描いていない一つの理由として考えられるのは、「神を信じればみな天国に行くことが出来る」ということでしょう。
何しろキリスト教では、最後の審判で地獄行を決めるのは「神様」です。
しかも罪を犯した人でも神様の前で悔い改めれば天国に行くことが出来ると考えています。
つまり地獄に行く人は「神様の存在を信じていない人」ということなのです。
だからキリスト教では「神を信じる」ということが、死後の世界においてもとても大事なことなのです。
仏教では何に生まれ変わるのかによって死後の世界が変わる
仏教ではキリスト教の「天国」に当たる場所を「天道」といいます。
ただキリスト教のように誰でも天道に行くことが出来るわけではありません。
そもそも仏教では「生まれ変わり(輪廻転生)」をします。
一般的に私たちが「この世」と呼んでいるのは、6つある世界の中の1つ「人道」にすぎません。
人道は6つある死後の世界の中では上から第2位に当たります。
ですから決して悪い世界というわけではありません。
ただし人道には「煩悩」が付きまといます。仏教では「煩悩は様々な迷いや苦しみを与える」と考えるので、それを背負わなければいけない人道は決して最高の生まれ変わりではないのです。
とはいえ天道に生まれ変わるのはとても難しいです。
そもそも天道は全ての煩悩から解放された天人が住む世界です。
この世界に生まれ変わることが出来れば、苦しみの元である煩悩からも解放されます。
でもこの世界への生まれ変わりはかなりハードルが高いです。
ですからなかなか天道に生まれ変わることはできません。
ちなみに人道の下にある世界が「修羅道」。
この世界は阿修羅が住む世界といわれているので、常に苦しみや怒りがあふれています。
ただ地獄のような世界ではありません。
怒りや苦しみのほとんどは他者から与えられるものではなく、自己に向けられるものだといいます。
・生まれ変わってはいけない3つの世界
仏教には「三悪道」という言葉があります。
これは輪廻転生する6つの世界のうち、「悪道」と呼ばれる3つの世界をまとめて表現したものです。
三悪道は「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の3つのことで、この世界では苦しみのみが待っています。
中でも「地獄道」は、生前の罪を償わせるための世界。
つまりこの世でいう「刑務所」のようなものです。
地獄道も刑務所も「罪を悔い改める場所」という意味で共通しています。
ですから地獄道に生まれ変わっても、服役して罪を償えばそこで輪廻転生し再び人の世に生まれ変わります。
ただし地獄道の刑罰は刑務所のそれとはレベルが違います。
罪の重さ別に服役先が決まっており、「灼熱地獄」「極寒地獄」「賽の河原」「叫喚地獄」など様々な刑場があります。
ただ言えることは、℃の刑場でも想像を絶する苦痛が待っていることです。
服役期間が過ぎればこの世に戻ることが出来るとはいえ、想像を絶する苦痛に耐えなければいけないのであれば是が非でも避けて通りたいものですよね。
まとめ
人が死んだ後の世界を宗教別に紹介してみましたが、あなたが共感できる世界はあったでしょうか?
宗教は「目に見えない不安」に対して強い力を持っています。
死は生きている時には体験できませんから、誰に対しても不安の対象です。
だからこそ宗教では「死後の世界」を大切にします。
そしてそれはそれぞれの宗教の教えとも深く関係しています。