お坊さんを呼んでお葬式をすると、「お葬式が終わった後も四十九日までの間七日ごとに供養をしなければいけない」といわれますよね?
でもお葬式をするためだけにお坊さんとご縁を持った人の場合は、お葬式が終わってからもお坊さんとお付き合いをしなければいけないことに疑問を持つ人も多いのでは?
そうはいっても「言われた通りにやっておかないと周りから何か言われるのはイヤだ」「大切な人の供養のためならば」と思うと、ひとまず言われた通りにしておこうと思うのが一般的なはずです。
でも七日ごとに行う「中陰供養」と呼ばれる法要にどんな意味があるのかが分からないままでは、「とりあえずやっておけばいい」という想いだけしか残らないはずです。
そこで今回は仏教式でお葬式を行った場合、四十九日まで七日ごとに行う供養にどんな意味があるのかをわかりやすく解説していきましょう。
お葬式後の四十九日にはこんな意味があった
日本では普段は宗教に対してほとんど関心がない人でも、お葬式の時だけは仏教のお坊さんを頼むという人が多いです。
というのも日本のお葬式で一番多いのが仏教式のお葬式なので、一般的なお葬式を希望すると「仏教式のお葬式」となります。
仏教にも宗派があるのですが、多くの宗派では「亡くなった後に四十九日間の旅をしてから生まれ変わる」という考え方があります。
そのためお葬式が終わった後も、四十九日を迎えるまでは七日ごとに供養を行うようにすすめられます。
とはいえ普段の生活の中で仏教と縁がない場合は、「お葬式が終わった後もお坊さんが言う通りに供養をしなければいけないの?」という疑問がわくはずです。
もちろんこうした疑問を持つのがあなただけというわけではありません。
多くの人が同じような疑問を持っています。
人の死に宗教が関係するのは「お葬式だから」ではない
お葬式だから宗教者を呼ばなければいけないというわけではありません。
最近では宗教者を呼ばずにお葬式をする「無宗教式」というお葬式のスタイルもあります。
でも現在の日本では「無宗教式」というお葬式のスタイルはあまり浸透していません。
だからといって必ずしも「お葬式に宗教が必要」ということではありません。
お葬式は大切な人との別れです。
確かに大切な人と積み重ねてきた思い出や記憶は、お葬式を済ませたからと言ってなくなるわけではありません。
ただその人の姿形は、想い出や記憶の中のものとは違います。
お葬式が終わってしまえば大切な人の声を聴くことも話をすることも、さらには直接体に触れることもできません。
この現実が、お葬式をした後に大きな心の悲しみとして残ります。
大切な人の死の直後は、残される人にとってはその現実を素直に受け止めることが出来ません。
目の前には穏やかな顔で眠っている姿がありますから、「声をかければ起きて来るのではないか」と思ってしまいます。
ただお葬式が終わり火葬されてしまうと、その姿を目の前にしてみることが出来なくなります。
お葬式のために集まってくれる多くの人も、日が経つにつれて少しずつ減り、1人で思い悩む時間が増えてきます。
時には心が引き裂かれるような苦しさを感じる時もあります。
激しい怒りの感情が起こることもあります。
「あの時もっとこうしておけばよかった」と深く後悔することもあります。
その上で改めて大切な人がこの世を去った悲しみを感じます。
でもこうした様々な感情を少しでも紛らわせてくれるのが宗教です。
宗教において「死」は大きなテーマであり、その悲しみを少しでも和らげるために様々な儀式を行います。
確かに普段から宗教に関心のない人にとって見れば、宗教の儀式や考え方が難しいと思ったり面倒だと思うこともあります。
でも一つひとつを過ごしていくことによって、わずかではありますが1人きりで思い悩む時間を減らすことが出来ます。
宗教の儀式をしたからといって、大切な人を失った悲しみが無くなることはありません。
でもほんのわずかな時間だけでも、1人きりで悲しみに向き合わずに済みます。
つまり宗教はお葬式のために必要なのではなく、悲しみを紛らわせてくれるために必要とも言えるのです。
「仏教だから七日ごとに供養をしなければいけない」ではない
仏教式のお葬式といっても、宗派によって「死後の世界」の考え方が違います。
七日ごとに供養をする必要があるのは「亡くなってから四十九日目に生まれ変わる」という考え方をする宗派に限られています。
そのため「亡くなった後すぐに仏の世界へ行く」と考える宗派では、四十九日間の旅もなければ旅支度の必要もありません。
つまり「仏教だから七日ごとの供養がある」のではなく、「宗派の考え方によって」という前提がつくだけなのです。
お葬式のあと四十九日目に生まれ変わるとどうなるの?
ここからは「死後四十九日目に生まれ変わる」という考えがある仏教の宗派を、あえて「仏教」と表現して説明していきます。
仏教では亡くなると仏門にはいります。
いわゆる「出家」です。
お坊さんのお弟子さんになり、お弟子さんとしての名前を貰います。
それが「戒名」です。
さらにお坊さんが仏教の教えを書き残したお経を読んで聞かせて、「仏の道とはどういったものなのか」ということを教えていきます。
これが「読経」です。
仏教のお弟子さんになった故人は、四十九日間かけて旅をしながら生まれ変わるための様々な経験をします。
最も大事なのは、七日ごとに設置されている関所の通過です。
七日ごとにある関所には、位の高い神さまがそれぞれ待っています。
そして四十九日後に生まれ変わる世界を決めるための裁判を行います。
最後の関所を超えると来世に生まれ変わるのですが、どの世界に生まれ変わるのかはそれまでの裁判の結果次第になります。
最も良いといわれているのが仏さまのいる「天界」なので、「亡くなったら仏さまになる」という言い方をします。
でも人間界に生まれ変わることもできます。
ただ仏教では「人間は様々な煩悩を抱えた世界」と考えているため、そのような悩みを抱えない仏さまの世界に生まれ変わることを「最も良い生まれ変わり」と考えます。
ただ仏教では天界や人間界以外にも、畜生・餓鬼に生まれ変わることもあると考えています。
もちろん故人の生前の行いそのものが生まれ変わる世界を決めることと関係があるといわれていますが、それ以外にも「残された人がどれだけ故人のための供養をしたか」ということも考慮します。
そのため仏教では、お葬式が終わった後でも遺族や親族が仏教の考えに基づいて供養を続けることをすすめています。
お葬式のあと七日毎に待ち構えている神さまとは?
四十九日の旅の合間に7つある関所では、生まれ変わりのための裁判が行われるだけでなく、それぞれの関所を担当する神さまが「仏の世界」に生まれ変わることが出来るように様々な教育を行っています。
初七日担当の神さま
不動明王尊が担当しています。
亡くなった本人も自分が死んでしまったことをうまく受け入れられない状態なので、現世に未練がありなかなか死後の世界に旅立つ覚悟が出来ません。
そのため初七日の神さまは「迷いを断ち切って旅立ちなさい」と諭してくれます。
二七日担当の神さま
釈迦如来が担当しています。釈迦如来は、実在していた人物だったといわれる神さまで、人間を救うために仏さまになったといわれています。
仏さまの教えを知らないまま亡くなった人に対して、仏教の考え方を分かりやすく教えてくれる小・中学校の先生のような存在です。
三七日担当の神さま
文殊菩薩が担当しています。二七日担当の神さまと同じく、仏の教えを教えてくれます。
すでに二七日の神さまが仏教の初級・中級編を教えているので、三七日の神さまは、さらに詳しい内容を教えてくれます。
人間界に例えれば、高校・大学の先生のような存在といえます。
四七日担当の神さま
普賢菩薩が担当しています。
普賢菩薩は慈悲門を司る神さまなので、煩悩を捨て心を穏やかにすることを教えてくれます。
五七日担当の神さま
地蔵菩薩が担当しています。
地蔵菩薩は地獄に落ちてしまった人を救ってくれる神様です。
穏やかな表情が印象的な地蔵菩薩ですが、閻魔様としての顔も持っています。
六七日担当の神さま
弥勒菩薩が担当しています。
弥勒の力と如来の力を両方持っているスゴイ神さまです。
どんな人であっても必ず仏の世界に生まれ変わることが出来るように、力を授けてくれます。
四十九日(七七日)担当の神さま
薬師如来が担当しています。
仏教では一応四十九日を迎えると生まれ変わると考えられているのですが、残された人たちがその後も供養を続けているとさらに良い世界へ生まれ変わることが出来るといいます。
そのための薬を授けてくれるのが、四十九日の神様です。
まとめ
お葬式が終わった後に行う中陰供養は、必ずしもお坊さんを呼んで行わなければいけないというわけではありません。
仏教の考え方で言えば、「残された人の祈りや供物などが孤児の生まれ変わりの手助けになる」といいます。
さらに供養をしたいという時に手助けをしてくれるのが、お坊さんの読経です。
ですからお坊さんを呼ぶ・呼ばないの判断は、家族次第でもあるのです。
七日ごとの供養は確かに大変です。
でも行うことによって、大切な人との別れを1人で耐える時間をほんの少しだけ減らすことが出来ます。
お葬式後の供養は、形に囚われるのではなく「心の痛みや悲しみとどう向き合っていくのか」ということを考えてみてください。
そこであなたが出した答えこそが、あなたらしい供養の仕方といえます。