子育てもある程度先が見えてくると、漠然と不安に思うようになるのが年老いた両親のことですよね?
「まだ元気だしうちの親に限って大丈夫」と思っていたはずなのに、ふとしたことで親の老いを感じる瞬間はあります。
たとえば「親と同じ年齢の芸能人が亡くなったニュースを目にした時」は、どうでしょう?
「もしかしたら子供に心配かけさせないだけで同じ病気なんじゃないか?」と急に不安になったりします。
もちろん今では親世代のほとんどが携帯電話を持っていますから、離れて暮らしていたとしてもすぐに電話をして安否を確認することは出来ます。
でもこうした経験をすると、心のどこかで漠然と親のお葬式のことを考え始めるようになります。
とはいえインターネットなどで紹介されるお葬式の話といえば、「お葬式の流れ」や「お葬式の費用」などばかりです。
良いか悪いかを判断するのも、ほとんどが「費用」に関する比較ばかりです。
これでは「納得できる価格でお葬式が出来ればよいお葬式」となってしまいます。
でもこれが本当に良いお葬式の条件なのでしょうか?
お葬式の良し悪しは「その人の人生」が深く関係してくる
お葬式屋さんのテレビコマーシャルやチラシを見ると、必ず出て来るのが「まごころ」というキーワードです。
漢字では「真心」と書き、意味としては「真実の心」「偽りのない心」「飾りのない心」となります。
でも考えてもみてください。
お葬式屋さんもサービス業の1つです。
サービス業において「嘘・偽りのないサービス」は良いサービスと認識されるでしょうか?
つまりお葬式屋さんもサービス業である限り、「まごころ」という言葉は標準装備していなければダメなのです。
ですからはっきり言ってしまえば「まごころのサービスをモットーにしています」というお葬式屋さんほど、疑ってかかった方がいいのです。
「生きている間にどれだけの人と真摯に向き合ってきたか」でお葬式の良し悪しは決まる
これまで私もたくさんのお葬式を見てきましたが、お葬式の良し悪しにお葬式の費用やお葬式の規模、お葬式の演出は全く関係ありません。
ただ一つ断言できるのは「お葬式を見ればその人の生き方が分かる」といえます。
終活という言葉がブームになってから、自分のお葬式について積極的に考えたり準備をする人が増えてきました。
そのためそうした考えを書き残す「エンディングノート」もブームになりました。
でもこれまでのところ、実際のお葬式の打ち合わせでエンディングノートを出してきた家族を見たことがありません。
でもエンディングノートがなくても、お葬式の内容を決めていくときに必ず基準になるのは「本人だったらこうしているに違いない」という家族の想いです。
そこには家族として積み重ねてきたたくさんの思い出と歴史があり、その一つひとつを振り返った時に「本人がもしも生きていたならば、こうしていたに違いない」という結論に至ります。
そうした想いが形になったお葬式は「その人らしさ」を感じますし、参列した人は遺族席に座る家族の中に亡くなった人の面影を感じます。
もちろん人によって価値観は違いますから、「豪華さ」「金額」「演出」にお葬式の価値を感じる人もいます。
でもそういう人も心の奥底には「本人らしいお葬式にしたい」という想いがあるのは間違いありません。
つまりお葬式は「亡くなった人の人生そのもの」といえます。
どんなに規模が小さくても、費用が掛けられなかったとしても、そこに家族の愛があふれているのであれば「家族のことを一番に考えて生きてきた人のお葬式」ということが伝わってきます。
「普通のお葬式」ほど高いお葬式はない
「お葬式の費用は高い」というイメージが強い分、出来るだけ無駄を省いて費用を抑えたいと思う気持ちが起きることは間違いありません。
特に病気で入院が長かった場合などは、治療費もかなりの高額になっているはずです。
その先にあるのがお葬式ですから、経済的な負担は出来るだけ抑えたいと思って当然です。
そうなるとつい言ってしまうのが「普通のお葬式にしてください」というセリフです。
ただ家族がお葬式屋さんとの打ち合わせで、ついそういったセリフを言ってしまう気持ちもよく分かります。
何しろお葬式の打ち合わせは大切な家族が亡くなってから数時間もしないうちに行うわけですから、気持ちの整理をつける余裕も正しい判断をする余裕もありません。
でも「普通」というお葬式ほど高いお葬式はありません。
この世に人が存在する限り、その人数分の人生があります。
お葬式はその人の生き方そのものなのですから、「普通のお葬式」というもの自体があり得ません。
ということは「普通のお葬式」をお葬式屋さんに形にしてもらうと、「当たり障りのないお葬式」にしかなりません。
祭壇だって本人の写真が飾られているから「お父さん・お母さんらしい」と感じるだけで、写真がなければただの飾りです。
しかもお葬式は、形が残りません。
どんなに立派な祭壇を飾ったとしても、それがあなたのものになるわけでもありません。
どんなに凄い演出をしたとしても、どんなに有名な司会者に司会を頼んだとしても、それが形として残ることはありません。
なぜならお葬式は「記憶」にしか残らず、その記憶に対して「お金」を払っているのです。
言い換えれば「記憶に残らないお葬式は、どんなお葬式であっても高い」と感じます。
だから「普通のお葬式」ほど高いお葬式はないのです。
形のないものにお金を払うからこそわがままは言うべきである
「高いお葬式はダメだ」といわれますが、それはケースバイケースです。
お葬式は「記憶」に対してお金を払うものです。
満足できるお葬式だったといえるのは「良い記憶が残るお葬式」といえます。
さらに言えば「記憶」は形に残りません。形にすることもできません。
形のないものにお金を払うわけですから、お葬式の記憶として価値がなければどんなに安いお葬式だったとしても「高い葬式だった」「質の悪い葬儀屋だった」という評価にしかなりません。
でもお葬式は非日常の出来事です。
冠婚葬祭といわれるため結婚式と同じように考えられがちですが、お葬式が結婚式とは違う決定的なことは「人生で1度きりしかできない」ということです。
結婚式も出来れば1度で終わりにしたいものです。
でも「離婚」という言葉がある以上、「再婚」もできます。
もしも再婚相手とも結婚式をするのであれば、人生の中で2度行う人も出て来るでしょう。
ところがお葬式は違います。
どんな人であろうとも、お葬式は1度きりです。
形に残らない上に失敗が出来ないお葬式なのですから、どんな形であれ家族が納得できるお葬式でなければお金を出す価値がありません。
だからこそお葬式では、思いっきりわがままを言った方がいいのです。
もちろん家族の希望を実現するためにはお金が発生するものもあります。
でもその希望があなたや家族が考えるお葬式にはどうしても必要な物なのであれば、きっとその金額に対してあなたや家族が不満を感じることはないはずです。
どんな人でもお葬式で後悔をしない人はいない
最後にもう一つだけ知っておいてほしいことがあります。
どんなお葬式をするにしても、残される家族が後悔をしないお葬式は1つもありません。
なぜなら時間が経てばたつほど、「もっとこうしてあげればよかった」「もしも自分が冷静に判断で来ていればイメージ通りのお葬式にできたはずだった」と思うはずなのです。
それはお葬式に2度がないからこそ起こる後悔です。
大切な人を失くした悲しみの直後に様々なことを決めていかなければいけないのがお葬式ですから、正常な判断が出来なくて当然です。
さらに結婚式のように時間をかけて準備するものでもありません。
ある日突然その時がやってきて、数日の間に全てのことを準備していかなければいけないのです。
だからこそ、お葬式で後悔をしない人はいないのです。
でもその時に心の支えとなるのが「お葬式の記憶」です。
いろいろな後悔が浮かんできたとしても、そこにお葬式の良い記憶が残っていればそのことで何とか折り合いをつけようという気持ちになれます。
でもお葬式に悪い記憶しかなければ、きっとさらに自分を追い込むことになってしまうでしょう。
まとめ
「良いお葬式とは?」という疑問に対して、正しい答えが何であるのかはわかりません。
でも一つだけ言えるのは、「形のないものにお金を払うのがお葬式であり、お葬式での記憶がその後の心の在り方に大きく関係する」ということです。
今後あなたが親のお葬式について考えることが増えてきたら、ぜひ思い出してください。
親のために良いお葬式をしたいと思っているのであれば、「この世で過ごす今の時間を大切にしなければいけない」ということを…。