おひとり様といっても様々なケースがいます。
天涯孤独という人もいれば、親族がいても高齢でいざ自分が死んだときにお葬式などのことを頼むことが出来ない人も「おひとり様」といいます。
多くのおひとり様の場合、その不安はお葬式だけでなく病気になった後のことまで多岐にわたります。
でもおひとり様であるがゆえに、出来る限り元気なうちに自分のことを考えて準備しておこうという人が増えています。
でもあなた自身が思っているほどおひとり様は孤独ではありません。
「自由に時間が使える上に、誰に気を使うわけでもなく思い通りに生活をすることが出来る」ということは、非常に贅沢な生き方とも言えます。
そんな人生の贅沢を楽しんでいるおひとり様だからこそ、いまのうちにうごいていくことによって本当の意味での「おひとり様のお葬式」にならずに済みます。
本当の意味での「おひとり様のお葬式」ほど寂しいお葬式はない
「おひとり様のお葬式」といいますが、本当の意味での「おひとり様のお葬式」の実態はご存知でしょうか?
いわゆる「孤独死」といわれるものも、けっして「おひとり様のお葬式」とは言えません。
確かに最後の時を迎えた時に誰にも気が疲れず一人で逝ってしまうことを「孤独死」といいます。
でも孤独死であっても、お葬式をすれば同居していない家族や親族、さらには生前お付き合いのあった近所の方や友人・知人たちも駆けつけてきます。
つまり「孤独死になればおひとり様のお葬式になる」というわけではありません。
お金持ちの家庭でも「おひとり様のお葬式」になる場合もある
かつて20年ほど前に私が担当した家族の話です。
東京都内の超高級住宅が集まるエリアである高齢女性が亡くなりました。
息子家族と同居しているといわれた家は、広さばかりでなくさりげなく飾られている調度品も高級なものばかりです。
ところがいざ安置されている部屋に通してもらうと、家の入口すら別に設置された小さな2階の部屋でした。
キッチンもトイレもお風呂も小さいながらすべて揃ってある2階の部屋は、高齢女性だけのための生活空間でした。
とはいえすべてがキレイに整理整頓されている部屋。
察するところ、息子家族たちに迷惑をかけまいと必死に頑張って生きてきた女性の姿をその部屋は物語っているようでした。
ただどことなくおかしな点がありました。
同居している家族が、亡くなった高齢女性のことをまるで他人のように接していることです。
お葬式の祭壇も棺も骨壺も、最高ランクのものを選んでいました。
それでも誰もが故人の顔を見ようとしません。
それどころか故人が安置されている2階の部屋に行くことすら避けています。
湯灌が終わり入棺を済ませた後、一階の広い床の間に案内されますが、この時も家族が棺の中で眠る故人の顔を見ることはありません。
お通夜もお葬式も出棺も、家族は故人の顔を見ようとしません。
周りの人に促されて同居していた息子が一度だけ最後に顔を覗き込んだだけで、他の人はほとんど誰もその最後の顔を見ることなくその女性は旅立っていきました。
私はこれこそが本当の「おひとり様のお葬式」だと思います。
どんなにお金をかけたお葬式をしたとしても、その人と限られた時間を一緒に過ごすことが出来なければ孤独なお葬式としか感じられないのです。
もちろんこの高齢女性と息子家族にどのような理由があってこのような別れの形となったのかはわかりません。
それでも「家族がいればおひとり様のお葬式にはならない」というのは、このお葬式を体験した私の個人的な意見としては「ありえない」と思うのです。
子ども3名の母子家庭の母親のお葬式は人の温かさが伝わるお葬式だった
この話も私がかつて担当したある母子家庭の母親のお葬式の話です。
亡くなったのは、病気が分かっても子どものために働くことを辞めなかった3人の子を持つ母親でした。
一番下の子供はまだ小学生の低学年くらいで、一番上の子供もやっと中学生になったばかりでした。
病院から寄り添うようにしてついてきたのは、アパートの隣の部屋に住む高齢の女性でした。
血縁関係があるわけではないものの、母親が入院したのをきっかけに何かと3人の子供の面倒を見てきたといいます。
親族はいるらしいのですが連絡先が全くわからないということだったため、お葬式の打ち合わせは小さな3人の子供たちと隣に住む高齢の女性のみ。
心配になった高齢女性の夫も後から合流し、「子供たちのためにも出来るだけ安いお葬式にしてやってくれ」という申し出がありました。
たしかにお葬式そのものは「火葬をするのみのお葬式」でしたので、派手さもありませんし必要最低限の備品のみのお葬式でした。
ただそこには愛がありました。
お別れの花も準備出来ない状態でしたが、長女が出棺の朝、近所の公園に咲いている野の花を摘んで棺の中に入れていました。
子どものことばかりを気にかけて自分の服を買う余裕などなかった母親のために、隣に住む高齢女性の娘が持っていたワンピースを副葬品として入れてあげました。
お通夜の時に下の2人の子供が「白い紙を10枚ください」といってきたので白紙のコピー用紙を手渡すと、一晩かけてたくさんの鶴を折って棺の中に納めていました。
事情を知らない人から見れば「写真なし」「読経なし」「参列者も数人」のこのお葬式は、限りなく寂しいお葬式に見えたことでしょう。
でもこのお葬式を最初から最後まで見届けた私としては「愛に溢れたステキなお葬式」に見えました。
ここであなたに質問です。
私が立ち会ったこの2つのお葬式を通して、本当の意味の「おひとり様のお葬式」はあなたがこれまで想像している通りのものだったでしょうか?
もしも違うというのであれば、たとえ今の生活がおひとり様の一人暮らしであったとしても、そのことが原因で「おひとり様のお葬式になる」とは言えないはずです。
遠くの家族・親族より近くの他人が頼りになる
お葬式は家族や親族が行うものという考えが強すぎると、「おひとり様のお葬式」になってしまいます。
最後の時間を共に過ごす人の方が、遠くに住む家族や親族よりも大切な存在になります。
もちろん実際のお葬式になれば家族や親族が中心になります。
でも本当に大切なのは「いざその時を迎えるまでにどのように暮らすのか?」です。
共に笑いともに悩み、時にはお互いを支え合う存在が一人でもいれば、あなたのお葬式は決して寂しい「おひとり様のお葬式」になることはありません。
大切なことは「いかにして充実した生を全うするか」です。
充実した日々を最後まで過ごすことが出来たなら、たとえおひとり様であったとしてもあなたのお葬式は愛に溢れた温かいお葬式になることでしょう。
墓友は配偶者を亡くしたおひとり様にとって相性がいい
配偶者の死亡によっておひとり様になった人の場合は、墓友を作るのがおすすめです。
墓友というと「おひとり様の終活の代表アイテム」というイメージがありますが、それ以外にも心の支えとなることがあります。
特に配偶者を失くしたことによっておひとり様となってしまった人の場合、家の中に閉じこもりひとりでその悲しみに向き合わなければならないというつらい現実があります。
たとえ子や孫がいたとしても、配偶者を失くした悲しみを共有することは出来ません。
このような悩みを打ち明けることが出来るのは、同じ体験をした人です。
墓友はこうした人が集まりやすいという点があるため、お墓の共同購入者というだけでなく悲しみを共有できる同士のような関係になります。
まとめ
おひとり様の生活を過ごしているからといって、「誰も来ないひとりきりのお葬式をしなければいけない」ということはありません。
どのように生き、どのようにして人とつながりを持っていくのかがお葬式には深く関係しています。
だからたとえおひとり様暮らしをしていたとしても何も不安に思う事はないのです。
大切なことは「今をどう生きるのか」ということです。
たくさんの人と関わりたくさんの思い出を共有する仲間がいれば、それこそあなたが思う通りのお葬式になることでしょう。